第三章 ジェイムズ経験論の発展

第五節 多元的宇宙について

 ジェイムズ思想が最もはなやかに躍動する場が宗教的領域であるというならば、最もひかえめで、しかもそれでいてわれわれの哲学的精神に友好的にささやきかけてくるジェイムズの「多元論」も彼の思想の中心を占めるところの、忘れられてはならない考え方の一つであろう。否それ以上に、この思想は、ペリーのいうように、ジェイムズの三つの基本的思想の一つとして重要な役割をはたし、根本的経験論という「素材」とプラグマティズムという「方法」の協同によって生まれた「完成された建物」として象徴的に表現されているのである。そこでわれわれは本節において、これまで論述されてきたジェイムズの思想のつめをする意味で、この多元論の中味を吟味し、片側にのみかけられたアーチの補修工事をしてみる必要があるだろう。
 そこで思い出されるのはわれわれが第一章第五節であきらかにした「哲学体系からみたジェイムズ哲学の位置」である。そこでは根本的経験論が絶対的観念論と対置されていた点及びこの絶対的観念論の内容が一元論的観念論であり一元論的宇宙であった点が論述されていた筈である。それのみか一般的にジェイムズは一元論そのものに反対し、わずかにそれが単なる仮説である場合にいくらかの評価をするだけで、それ以外に機能する場合は一元論を有害な理論とさえ考えていた。
 してみると、この場合、根本的経験論の内容は当然一元論と対立する多元論を骨子としているという判断がおのずとえられてくるだろう。端的にいえば根本的経験論とは多元的経験論なのであり、従って逆に「多元論が世界の永遠の形態であるという考えを自分の仮説としてうけとる」
(1)ものがジェイムズのいう根本的経験論者なのである。勿論、そういわれたからといって根本的経験論が多元論そのものである、というのではないだろう。しかしいずれにしてもジェイムズの多元論は彼なりの理由に基づいて一元論に対立するものであるから、この一元論がまきおこす様々な考えを対置しながら多元論は論述されなければならないのは確かであろう。
 ジェイムズの多元論をあきらかにするテーゼは彼の著『多元的宇宙』の中で簡単に次のようにまとめられている。「整合的に考えだされた一元論的宇宙は一種の自家中毒になっているかのように堕落の神秘に苦しんである。即ち実在が現象に、真理が誤謬に、完全が不完全に、堕落する神秘、要するに悪の神秘……に苦しんでいる。これらからのがれる唯一の方法は正直に多元論的になり、超人的意識がいかに巨大であろうとも、それ自身、外的な環境をもち、その結果有限であると主張することである。」
(2)
 かかる多元論擁護の声は一元論の否定によって成立しているのである。だがわれわれは多元論がもともとこういう性質のものであり、絶対的に断絶がないという一元論のテーゼに反対するという消極的意味しかもたないことを銘記すべきであろう。いいかえれば一元論的に物事を考えるとどうしても説明のつかない余分の事実があらわれてくる、という故をもって一元論は否定されているのであり、逆に多元論が肯定されなければならないのである。
 さてジェイムズの多元論的主張はまさに「完成された建物」として「ジェイムズの哲学的成熟」
(一)と歩調をあわせているといえるだろう。ペリーによれば多元論は三つの根源をもっている。即ち一つは人格的根源であり、その二つは道徳的根源であり、その三つは哲学的根源である。
 第一の人格的根源とは多様性と変化を愛するジェイムズの性格に由来している。それらは人間の精神のなかの様相として意味されると同時に、その精神の対象となる内的、外的な存在の様相としても意味されている。ジェイムズにとって世界とはいかなるものによってもまだ規定されない、それ故に拘束されもしなければ、教化もされていない、あるがままの、生の世界でなければならなかった。そしてその世界に対して大なる可能性が秘められており、しかもその可能性がわれわれの経験にとってのみ開かれる、という意味でなければならなかった。この人格的根源においては多元論がとりいれられる論理的根拠はない。まさにジェイムズが多元論を支持する典型的な考え方、即ちジェイムズの哲学的気質と一致するから実際的意味をもつ、という生の考え方がこの人格的根源となってペリーによって説明されているのである。
 次の道徳的根源とは善と悪、個物と普遍の安易な妥協を好まない考え方にあった。この考え方は以下の説明を要する。われわれは以前プラグマティズムにおいて調和と妥協がある意味で重要な人間的態度であることを知った。しかしそれは形而上学的論争ないしは具体的事実をはなれた論議において決着をつけるときの場合であって、現実の場合、特に倫理的問題がからんでいる場合は、妥協が自己の生き方の否定に通じるという意味において、それはさけられねばならなかった。なかんずく善は悪を認めるべきではなく、悪に吸収されるべきではないし、また個物はそう簡単に普遍の中に包摂されてはならないのである。なるほどジェイムズにとって善の本質とは単にわれわれの欲求を満たすことではある。しかしその善は決してその対立者、あるいはその妨害者によって懐柔されたり、吸収されるようであってはならず、むしろ、それらに対して敢然とたちむかい、それらを克服しようとする「奮闘的努力」によってその価値が問われるべきなのである。又個物の存在は名目論者の言にまつまでもなく唯一の現実的存在であり、具体的存在である。
 かかる存在は普遍という抽象的存在と安易に妥協すべきでないのはいわれるまでもない。個物は存在する限りにおいては生存の権利として認められなければならないし、その個物の主体性は拒否されるべきではないのである。かかる考え方が多元論の根拠となるのは、善は、抽象的な善としてではなく、人間によって欲求されたものとしてあり且つその一つといえども無視されてはならないのだから、いかような形であれ、諸々の善として存在しなければならないからである。われわれはここにジェイムズの主意主義的特徴をみなければならない。善や個物が積極的に認められなければならないのは、現実に存在するのがそれら以外にはないという理由だけからではなく、かかる存在が自らの意志でもって、悪を克服していこうとするからであり、普遍の抽象的実体に対してはっきり「ノー」と宣言しえるからなのである。善の悪への妥協、個物の普遍への妥協は倫理的に即ちわれわれがいかに生きるべきか、に対応せぬ、安易な気分easy-going moodにひたらせ、結局は一元論の毒牙にひっかかるだけなのである。このような考えによって導きだされたジェイムズの世界は倫理的多元論の世界、即ち善や個物を一瞬のうちに支配する王国ではなく、それらがおたがいに関係しあう共和国なのである。
 さて最後の哲学的根源とはジェイムズ経験論、とりわけ彼の経験至上主義experientialismにある。この場合経験はいわゆる経験総体としてあるのではなく、よくみれば、個々の諸経験の集合としてあるのである。ペリーはそれを詳しく次のようにのべている。「世界が経験において与えられている場合のような世界においては、事物間の諸結合は必然的ないしは本質的であるというよりは、むしろde factsである。世界の諸部分がおたがいに相手する『自由なる遊戯』がそこにある。諸部分はおたがいに『もたれあう』、それらは共存する、がしかし自らの同一性を失うことはしない。諸事物は一挙にうけとられるものとしてそれらの『全体─形』において、というよりも、数種的にseverallyそれらの『各個─形』において実在的である。世界におけるあらゆるものは一つの現実の環境をもっている、即ち真にそれ自身とは違ったなにかへの一つの関係をもっているのである。」
(二)
 このペリーの解釈はジェイムズの多元論の説明に他ならず、われわれがすでにあきらかにした根本的経験論の意識の複合性の考えに対応した現実的姿を示すものである。ここでのべられている諸事物、諸実在とはいずれもわれわれの有限的経験的要求を構成しているものであり、多元的宇宙はそれらの要素の「各個─形」をともなった集合を意味しているのである。
 ジェイムズの多元論の根源とされるかかる三つの見解は、彼の多元論が彼の様々の考えの凝縮物であることをよく伝えている。ジェイムズの多元論を他のそれと区別する最も端的な表現は、彼の多元論が断じて「絶対的多元論」を意味しないということである。この絶対的多元論は関係の一つだに認めぬ、全くよそよそしい世界を構成している。従ってそれは絶対的一元論と同様に形而上学的対象としてあり、全く非現実的な考え方である。従ってジェイムズの多元論は理論としては決して硬直しておらず、又独断的でもないのである。
 「事物の間のいくらかの分離や、独立の動きや、部分同士の自由なふるまいや、わずかでもなんらかの現実的な新奇性や機会が認められるならば多元論は十分に満足し、そしてどれだけの量のものであろうと、なにか真の統合については諸君にまかせるであろう。そこにどれほどの統一がありうるかは、ただ経験的にのみ決定されうる問題である、と多元論は考える」
(3)とジェイムズはいう。この寛容的な多元論はまさに経験論的多元論といわれるが故であり、事実のあり様如何によっても一元論をも包摂しようとするほどの柔軟性をもっている。いいかえればジェイムズの多元論は多元論でもあり、又同時に一元論でもあること、即ち「多即一」の現実を認めようとする。その意味では理論としては一元論と多元論の中間にあるような多元論といわれよう。このことはジェイムズの多元論が多元的宇宙 pluralistic universeを前提にした理論であるということを物語っているのである。
 以上の論述をふまえて考えるならば、冒頭にもあるように多元論は一元論的考えの批判の上に成立していることがあきらかになるであろう。この一元論的な考えは例の経験論に対立する考えといわれる合理論の考え方と軌を一にするものであり、宇宙や事物を考える場合にも、単一性を非常に重要な要素と考え、全体から部分を説明していこうとする態度をとっている。そして第一章第五節であきらかにされているように、かかる一元論は不可避に絶対的観念論の形態をとるようになる。われわれの世界や宇宙が一つの無限に認識する精神(絶対者)の対象としてのみ存在するという考えは、現実の問題としてとらえられば、あきらかに馬鹿げている。その馬鹿げた考えはそれらを知的にとりあげようとするところから生じてきているのであって、従って一元論は知的一元論以外のなにものでもないのである。
 このことは何をもたらすかといえば、一元論は知的対象としての世界や宇宙をとりあげているのであるから、現実の世界や宇宙、即ち事実と相対した時に、自らの知性を駆使するが故に、破綻する、という事態である。ジェイムズはそれを以下の四点において論証している。
 ジェイムズはまず「知的一元論はわれわれの有限的意識を説明しない」
(4)点をあげる。われわれの有限的意識の特徴は、あるものを知るときは他のものを知らない、という点にある、それが故にわれわれの有限的精神は悩むのである。しかるに絶対精神にとっては、それが知っているような仕方でしか、ものは存在しないのであり逆に絶対精神が知ってはいない仕方ではいかなるものも存在することはできないのである。
 この両者を比べれば、われわれの有限的精神と絶対精神の特徴はあきらかに異なっていることが判明されよう。われわれは全知の主体の単なる対象ではなく、われわれはわれわれの方で独自の主体をもっているのである。いいかえれば絶対精神の認識とわれわれの有限的精神の認識は全く別なのであって、それ故に絶対精神は有限的精神を説明することができないのである。
 第二は「知的一元論は悪の問題をつくりだす」
(5)点である。前述のように、一元論はその立場を徹底していると不可避的に「悪の神秘」にぶつかる。一元論は理論上の考えであるから、完全なものを想定することはできる。だが完全なものが根源的であるというのなら、現実に不完全なものが存在するのはなぜか、について説明されなければならない筈である。またもし絶対者に知られている世界が完全ならば、なぜに世界が絶対者より劣った無数の有限的複製品において、完全なものとしてではなく不完全なものとして知られるのか、についても説明されなければならない筈である。だがジェイムズにとって、悪の問題とはこのような思弁上の問題ではないのである。悪とは、いかにしてそれをとりのぞくかという実際上の問題をあらわしているにすぎない。一元論が提出する思弁的な悪の形而上学的特性は、仮令、悪の存在の根拠があきらかにされたところで現実の人間には適用されないのである。
 「なぜ悪が存在するのか、ではなくして、いかに悪の現実量を少なくするかが、われわれの考える必要のある唯一の問題である」
(6)とジェイムズはいう。それ故知的一元論の提出する悪の問題は自らの破綻を示す実例とされるだけなのである。
 第三は「知的一元論は知覚的に経験される実在の性質に矛盾する」
(7)点である。これまでの論述でもあきらかなように、ジェイムズの考える世界においては、変化というものが本質的な役割をはたしている。実在とは常に多様性と変化をもつ流動的なものであり、又かかる実在の性質の故にわれわれの精神とかかわり合う事態を可能ならしめているのである。われわれの世界には歴史があり、新しさがあり、葛藤があり、失うものがあり、得るものがある。このような様々な事実の複合とその変化こそが実在なのであるにもかかわらず知的一元論は、むしろその姿を否定するところにその根拠をみいだそうとする。なぜならば知的一元論の想定する絶対者の世界は不変の世界、永遠の世界、時間を超越した世界として表現されているからである。
 この世界をよくみると、それは全く非現実的である。というのはそれはわれわれの理解力をも、感知する力をもこえたものとしてあるとされているからである。のみならずそれはわれわれの感覚的世界でさえも妄想か錯覚のような不確かなものとしてとりあつかうほどに、有害な側面をもっているのである。
 最後に「知的一元論は宿命論的である」
(8)点があげられる。かかる一元論は感覚的世界を錯覚であるとみなすように可能性の考えも又錯覚であるとする。いうまでもなく、それは一元論の論理的構造によっている。いいかえれば一元論が想定する世界そのものが事実の統一体として、存在するものはすべて必然的であり、そうでなければその存在は不可能であるという前提をアプリオリにもっているからである。一元論の宿命論的考えは知性が捏造したものに他ならない。完全であるということは過去のあらゆるものを把握し、且つ未来のものをも過去のものの中に包み込むことである。あるいは過去のもの、未来のものの区別を超越した変化なき統一体の中にすべてを包み込むことである。一元論はそこから出発するのであり、従って可能性の考えが導出されえないのは当然である。
 ジェイムズのかかる論証は、彼のビジョンが把握されない場合は、多分にあげ足とり的なところがある。この論証はジェイムズのきらうところの主知主義者の論理を採用していないでもないからである。そして丁度絶対主義者が主知主義の論証によって感覚的世界をうちくだくように、ジェイムズは主知主義の論理によって論理的矛盾である絶対者をうちくだこうとしているからである。
 このジェイムズのテクニックは多元論を積極的に主張する場合にも用いられている。即ちジェイムズは多元論はわれわれの考えとしても又論理としても一元論よりすぐれている点について、一元論批判の論理的視点をそのまま多元論支持の論理的観点におきかえることによって、論証しようとする。
 ジェイムズによれば多元論は次の三つの利点をもっている。まずジェイムズは多元論はより「科学的」である、と考える。その根拠は、単一性がのべられる時には、その単一性が明確に確証しうる結合形態を意味すると多元論は主張する点にある。それ故に結合の形態がどのようなものであり、それが検証可能なわれわれの経験においてあきらかにされることが確証されればよいのであって、結合の形式を分離の形式よりもより重要で根本的であると考える必要はないのである。われわれの経験においては結合の形式も分離の形式も対等にある実在の事実であるという以外のなにものも示されていないし、多元論はその事実をすなおに認めている。にもかかわらず、一元論は結合の形式を分離の形式よりも重要であるという勝手な前提をこしらえるために、検証しうる経験をすて、名状しがたいある統一を宣言しなければならなくなるのである。
 次にジェイムズは多元論が人生の道徳的、ドラマティックな表現性とより一致する、と考える。これは論理というよりもジェイムズのビジョンの表明である。しかしながらこの根拠についてはわれわれはこれまで様々な形であきらかにしてきたのであるから、ここでのべられる必要はないであろう。
 最後にジェイムズは再び多元論の論理的長所をあげる。即ち多元論は多元性のどれだけ特殊な量をあらわしているかということをわざわざいう必要をもっていないということである。非結合性のわずかでも否定しがたい程に存在することがみいだされるのなら、それで多元論の存在根拠は保証されているのであり、又それによって、一元論にまさるということがいえるのである。それは次のような論争上の相違点にあきらかにされる。多元論と一元論がおたがいに相手を批判する時には、多元論は一元論のもつわずかな不足分を指摘すれば、一元論のすべてを批判することになるのに対し、一元論は多元論の主張のあらゆる部分が真ではありえないことを、最後の最後まで証明しなければならない、という点である。
 しかしながらジェイムズがかくも一元論を批判し、多元論を支持する頑固な態度は彼らしくないといわれるのではないだろうか。実はジェイムズは何もこれらの論証を唯一の根拠にしているわけではない。多元論、一元論を思弁の問題としてとらえる限り、このような内容でしかいいあらわしえないのであり、ジェイムズの真意は、多元論を多元的宇宙の中にその真の姿をみいだしているのをみてもあきらかな如く、もっと別なところにあったのである。
 このことを示す最もよい例はジェイムズが思弁の問題を考えてみた場合の一元論の利点を素直に認めているという点にみられるだろう。その中ではジェイムズは多元論の短所を指摘する中で一元論をはっきりと支持する。それは具体的にいかなる点にみられるのであるか。彼は『真理の意味』の中で多元論の短所を次のようにあげている。まず多元論は「絶対主義がしめすところの広範な冷静さを欠いている。」
(9)
 ジェイムズによっても多元論がごく限られた小さな部分にのみ着目する態度に、一抹の不安が感じられているのである。かかる態度は走る馬車馬の如き熱情にみち、それ故に真実であるかもしれないが、全体からみて、マイナスに作用するかもしれないのである。それ故に事物を広範に且つ冷静にみることに価値をおくとしたならば多元論は確かに批判されなければならないのである。
 次にジェイムズは、多元論は「絶対主義がなぐさめうる多くの病める魂を絶望させる」
(10)と考える。この考えは多元論があまりにも現実主義的であるために夢も希望も与えないのではないか、という前の一元論批判と全く逆の立場にたっている。そしてむしろ絶対主義のもつ確固たる姿、又それから導きだされる一元論的考えの雄大さに頼ることこそ、われわれの絶望的状況から解放し、一つの安定と平和をもたらすのではないか、という信念をうみだしている。
 従ってこれら多元論の短所を考える中で、おのずと一元論の長所がうかびあがってこざるをえない。ジェイムズははっきり次のように指摘する。「一元論の利点はある種の宗教的信仰との自然的な親近性及び世界が単一の事実であるという考えの特別な情緒的価値である。」
(11)
 さてこれらを論理の問題として考えてみた場合、ジェイムズは一方では一元論を否定する中で多元論を肯定し、他方では多元論を否定する中で一元論を肯定するという態度をおく面もなくあらわしている。これはあきらかに矛盾せる態度である。これら二つの態度を総合すれば、ジェイムズは一元論者であり、且つ多元論者である、ということになる。だがこのような評価こそジェイムズの非難するところの主知主義に基づくそれなのである。それによれば主知主義はかかる評価をした後は何もなしえないでいるのである。
 この考え方がわれわれの常識においてももの足らなさを感じさせているようにみえるのは当然である。なぜならば主知主義者は事実をみないでただ事実から抽象されたものないしは論理しかみていない態度をとるのに対し、ジェイムズの如き考えをもつ人間には、一元論者であり多元論者であるという主張がなんら矛盾しないと考えられるのは、事実がそれをうまく説明してくれる、という考えが心の底に横たわっているからである。従って事実をみるものが一元論的多元論あるいは多元論的一元論の考えを導きだしたとしてもなんら不思議なことではないのである。むしろ、事実をどれだけ忠実にみるかという観点にたち、そして理論としての一元論と多元論しか素材として与えられていないならば、その中間の理論的立場をとるということが、より似つかわしい態度であるといわれるのである。
 とはいえわれわれはジェイムズが一方では一元論を認め、且つ他方では多元論を認めるという態度が必ずしも彼の学的態度と矛盾していないことを、これまでの論述から察知しうるであろう。ジェイムズが一元論及び多元論を考察する場合、そしてその長所をあげる場合、いずれも、われわれの生の実際的観点からなされているという結論は容易に導きだされている。これはとりもなおさず、ジェイムズが事実に忠実であるという証左であり、すべてそれらがわれわれにどう働いているかという観点にたっているからである。
 そのことはジェイムズが多元論を肯定し支持する態度の中にみられているのは当然であるとしても、一元論を肯定し支持する態度にも感じとれるのをみても証明されるだろう。即ち、ジェイムズは一元論の利点を「特別な情緒的価値」の存在に求めている。いいかえれば一元論も又われわれに「具体的結果」「実際的結果」をもたらしているのであり、その限りにおいてジェイムズは一方的に一元論を拒否しようとはしないのである。一元論を単なる仮説としてとりあつかう態度ないしはプラグマティックにとりあつかう方法とは結局世界には無数の結合形式があることを認めなければならなくなるからである。その結合形式は物理的なもの、機械的なものあるいは美的なもの、等あらゆるカテゴリーの分野において、混然と存在している。われわれはそれらが一つの宇宙をつくりあげていると考えるべきである、とジェイムズは考えている。
 事実の神秘、いいかえれば存在それ自身の問題に関してはわれわれは決して知的に解明することはできないのであるから、われわれはそれに接近しうるだけである。してみれば、「世界がなぜに実在の多くの相互浸透的領域からなりたつ程に複雑であってはいけないのか、われわれは実在に、違った概念を用い、違った態度をとることによって、交互に接近していくことができるのである。丁度数学者が同じ数的空間的事実を幾何学によっても、解析幾何学によっても、代数学によっても、積分によっても、あるいは四次元法によっても、とりあつかい、その各々が正しいものとなるように。」
(12)
 ジェイムズのかかる考え方は、存在が概念的に説明されえないとする見方の例証でもある。しかし存在はわれわれに乞われるものとしてある。従って存在はどのような仕方であらわれるのか、という観点にたって考えるのが最もふさわしいわれわれの態度であり、そして一挙にではなく、あたかも一滴ずつ継起的に樽の水をみたしていくような方法をとるのが根本的に多元論的な態度なのである。このような方法で乞われた存在という樽の水は、たしかに一つの全体として存在しているのであるが、はじめから一つの全体としてあるのではなく、まさに一滴の水が無数に結合されたものとしてあるということが理解されて、はじめて、一樽の水といわれうるのである。
 さて結論的にジェイムズの多元論は忘れられてはならない特徴をもっている。それは自由意志の考えをうけいれている、ということである。そこでは一元論が可能性についての考えを全く排除しているのに反し、多元論は、現におこっている瞬間においてもそこにある新奇性noveltyが含まれ、しかもそれがこれからの出発点となる、と考えている。この根拠は多元論がもともと知覚的経験をありのままにうけとろうとする態度にあるわけだが、しかしその経験がわれわれの経験としてうけとられる限りにおいて、その新奇性の創造者はわれわれなのであるという意識を不可避的にともなっている。そこには一つの現実はわれわれ自らの働きによって作りだされるものであるということが積極的にうちだされているのである。それ故、自由意志論的多元論は世界が多元的なものとして規定される中で、われわれの意志がなんらそれに制約せられることなく、むしろ、意志の自由によって世界をつくりかえていこうとするあり方を示す最も適切な考え方であるといえよう。
 しかしこれも又一つの論理としてみた場合、一つの問題をもっている。即ち多元論にとって古典的な障害ともいえる「因果性の原理」として知られるものとのかかわりである。この原理は通俗的な意味においても、結果がなんらかの形で原因の中にある、という風に理解されている。いいかえればその考えは「結果に純粋に新規なものはありえない」ということ、即ち自由意志を、否定するものであり、ひいては多元論を認めないものとなろう。
 はたして「因果性の原理」とはそのような特徴をもつ多元論の大敵なのであろうか。そもそも因果性の原理とは何であるか、ジェイムズにとってはそれは「常識と主知主義との雑種として生じている」
(13)にすぎない。
 それによれば「能動的にある結果をうみだすものは『ある仕方で』その『力』をすでにふくんでいなければならない。しかし力という概念に対応するものは何一つ分離さえれないので、その連鎖の活動特徴はまもなくおしこめられ、まさにうみだされようとしている結果のばく然とした潜在即ち因果的現象のうちにある仕方で存在すると考えられている潜在は、二つの概念の間の同一性の静的関係へと発展する。そして精神は、因果的な結びつきがはじめてみいだされる知覚を、この静的な関係にとってかえる」
(14)のである。
 それ故因果性の原理とは概念に関するそれであり、われわれの実在に関係しているのではない。なぜならば概念は「実在の上に写されたノート、風景画であって……実在の断片ではない」
(15)からである。 とはいえ因果の活動と支持せられうる実在的変化はあるだろう。しかしそれはその実体的な印象がはっきりしなかったとしても「発展する事実growing factにおいてその役割をはたしている」(16)かもしれないとして理解されるべきであろう。
 もともと因果関係とは、「ある意識の場が他の意識の場を招きいれる様式であり」「経験が連続的流れとしてあらわれる形式の一つにすぎない」のであり、われわれがそれを単に指示的なものにすぎない概念でもっては説明しきれないものとしてあるのである。
 かくて因果性の原理とはピントはずれの自己流でもって多元論を攻撃しているにすぎない。それが真の新奇性を否定せざるをえないのはそれの論理的構造からであり、決して事実をありのままにみたからではない。
 ここでまたもやわれわれは、一つの論理的推論が現実に遭遇したときに破綻する例にぶつかっている。因果性の原理において、「結果がなんらかの形で原因の中に存在しなければならない」という考えが徹底されれば、ジェイムズのいう、現実における新奇なものの誕生は永久に不可能であるとされなければならない。しかし知覚的経験をおくるわれわれの前にあらゆるところにおいてたえまなくある種の新奇な対象がおこってくるようにみえるという事実に対して、それはわれわれの知覚の錯覚のせいにして、自らのもつ欠陥、即ち実在を正しくとらえられないという欠陥のせいにはしないのである。
 勿論それらのどちらが正しいとわれわれは即座にいえないかもしれない。なぜならば、かかる問題は確かに未来だけが答えうる問題であるからである。しかしながら事実に忠実であるという立場で一貫している限りにおいて、新奇性を認める態度が倫理的生活に適合しているという意味において、われわれに歓迎されるべき価値をもっているということはあきらかであろう。
 「経験の具体的断片について正確な複製品はかつてつくられなかった」
(17)というのがわれわれに示された事実であると同時に、われわれにとって考慮すべき仮説である。そしてわれわれに対して実在的に作用するものは、はじめからきめられてあったものでも、又単純な原理に基づいているものでもなく、それによってえるわれわれの経験の最も小さな断片のいかなるものも多元的に関係づけられた小型の内容豊富なものであるということを認める態度はわれわれが真理を創造していく上に重要なステップでもあるのである。
 合理論者の立場からみた場合、かかる考えは主張の中味の客観的確証がえられにくいという見地から、ある種の独りよがりないしは妄想であるとして片づけられるであろう。確かに経験論者としてわれわれはそれを断念する。だが重要なことはそれによって、われわれは真理それ自身の探求や希望を断念していないということである。ここに経験論の多元論的主張の特徴がみられるのである。真理それ自身の探求や希望を断念していないとは、自由意志の存在の経験論者的な認め方である。われわれが新奇なものの創造者であるという意識は、多元的な実在の様相の中に新奇なものを期待するというわれわれの態度に起因している。さらにそれはいかなる対象であれ、はじめから決定されたものはないという信念に基づいている。それ故に未来の事柄に関してもはじめから決定されているものはない、のである。
 ジェイムズは次のように考える。「真の新奇なものがおこりうるということは、すでに与えられたものの見地からは、今後あらわれてくるものは偶然なこととしてとりあつかわれねばならない。」
(18)これが多元論から導きだされる自由意志論のテーゼであり、事物の神秘を知的に解明できず、存在に対して単なる乞うものであるにすぎないわれわれにとって最も事実に近づき、それ故に事実と適合した考えなのである。
 だが新奇なものが実在的なものとなる過程はなにも受動的な働きの中で生じるというのではない。そのことは真理がわれわれの経験によって創造されるというジェイムズの基本的なテーゼからもあきらかであろう。ジェイムズの自由意志論のテーゼはある意味では強烈に真理の存在を信じようとする気持ちのあらわれであり、しかも経験を唯一の実在としてとらえようとする願いの証左である。ジェイムズはそれをブラッド氏の言葉をかりて次のようにいう。「多元論は真理……を信じる。しかしただ神秘的に実現されたものとし、経験において生きているものとして信じる。」
(19)
 ジェイムズの多元論は多元的宇宙が何であるかをあきらかにしているという意味において意義がある。それは単なる理論ではなく、一つの明確な倫理的価値観に基づいて、われわれに働きかける実際的意味をもっている。ジェイムズのかかる宇宙の思想は、どぎつい言葉を使用すれば、「腐肉の床にある一塊の蛆のおそろしい動き」
(20)としてみられる。とりわけ統一を愛するものにとって、かかるジェイムズの多元的宇宙の比喩的説明は吐き気を催させるに恰好であるかもしれないが、それでもって多元的状態や不安定な状態が徹底的に非合理的なものであるとはいわれえないであろう。
 ジェイムズ自身かかる状態は確かにある種の欠点をともなっているものであることを否定しはしない。なぜならばそれは一つの宇宙を自らこしらえていながら、その全景をとらえることもできない悔恨をともなっているからであり、たえず動揺して視点がさだまっていないからである。しかしながらそれにとってかわるものが、たとえば一元的宇宙が、合理的なものであるとは断定されえないのである。われわれはその根拠を一元論の論理的矛盾の中にみいだしているし、究極的にはそれがジェイムズの道徳的実在感に反しているという事実から理解しえるであろう。むしろジェイムズの自信としてここに表明されているのは、多元論は明白で安定した理論ではないという意味で非合理性をもっているが、一元論はわれわれの生のありのままの姿及び道徳的生き方に適合しないが故により一層非合理的であるという信念である。かかる信念をジェイムズはひかえめに主張することによって、われわれに多元論的観点をとらせようとしているのである。
 われわれがジェイムズの多元論をうけいれるかどうかは、まさにジェイムズのいうように、われわれの哲学が彼の哲学的気質と一致しているかどうか、即ちわれわれの哲学的気質がきめるものであって逆にジェイムズの多元論が「腐肉の床にある一塊の蛆のおそろしい動き」であるというだけでもって、又理論的にすっきりしていないという点でもってジェイムズの多元論は拒否されるべきではないのである。

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